人気ブログランキング | 話題のタグを見る

I will die for you...

日本の問題を二つほど・・・

「殺人列島」になってしまいそうだ
さすがに、警察庁も、

「予断を許さない状況……」

 と言ったらしいが、取り締まり当局が緊張すればどうなるとか、そういう問題ではなさそうだ。最近の人殺しの異常な頻発である。

 ただごとでない。毎日のように新たな殺人事件が起こり、二、三日前の事件は忘れていく。記憶にとどめるいとまも与えないのだ。

「気味が悪い世の中になったもんだ。殺人が伝染してるんじゃないの」

 と知人の一人は言ったが、そんな妄想にとらわれてしまう。

 八月一カ月でも、新聞(東京版)の社会面をちょっとめくっただけで、次の事件が目に入ってくる。

 ▽4日 横浜市神奈川区の無職、宍戸直樹容疑者(三十五歳)は認知症の父親(七十二歳)が外出するのを追って、自宅近くの路上で首をロープで絞め、果物ナイフで刺して殺した。

 ▽5日 茨城県古河市の無職、菊地秋子容疑者(五十歳)は、孫の稀夕ちゃん(三歳)が、「おばあちゃんにつねられた」と父親に告げ口したのに腹を立て、自宅で全身にタオルケットや毛布を巻きつけ、電気コードで縛って窒息死させた。

 ▽6日 千葉県大網白里町の和泉雄太容疑者(二十歳)は、同県東金市に住む母親の恵子さん(五十二歳)の自宅で、胸や背中をサバイバルナイフで数回刺し殺した。「恨みがある」と供述している。

 ▽11日 東京都町田市の会社員、佐久間忍(五十歳)と妻加代子(五十歳)の両容疑者は、自宅で就寝中の長女、由香さん(二十一歳)の胸や腹などを包丁で数回刺して殺害。「娘の家庭内暴力がエスカレートし、将来を悲観した」と自首した。

 -八月前半でこのありさまだ。見落としたのや、東京版に載らない西日本、北海道、九州などの事件を含めると、毎日、日本のどこかで人が殺されている。まるで殺人列島じゃないか。

 殺人は昔からあった。しかし、最近はどこか違う。五十歳の若い祖母がたわいない理由で孫を殺す、などという事件はかつては絶対になかった。小憎らしい孫がいて、折檻することはあっても、命を奪うところまではいかない。

 八月の後半、次のように宮崎、山口、北海道などが入ってきたのは、事件の特異性から大きなニュースになったからだ。

 ▽16日 広島県廿日市市の無職、佐々木盛夫容疑者(五十三歳)は、元交際相手だった同市の叶田ユリ子さん(三十八歳)宅に侵入、叶田さんと内縁の遠藤清志さん(四十一歳)の二人の頭や胸などを何度も刺し殺害した。

 ▽23日 埼玉県吉川市の中学一年の少年(十三歳)が「父親から生活態度を叱られたり、夏休みの宿題をやれと言われたので、困らせようと思った」と自宅に放火、小学六年生の弟(十二歳)を焼死させた。

 ▽24日 宮崎県延岡市の五ヶ瀬川堤防で、無職、原田優容疑者(二十歳)が「お前たちうるせえが。静かにしろ」と刺し身包丁で男女五人の高校生を襲い、県立延岡青朋高一年、森重和之君(十六歳)の背中をひと突き、死亡させた。

 ▽25日 神奈川県横須賀市の主婦、加藤恵子容疑者(五十三歳)が義母、ソノさん(八十九歳)の首を絞めて殺害した。「買い物から帰ったら玄関先で姑から水をかけられてカッとなった。十年以上いじめられていた」と供述。

 ▽28日 山口県周南市の徳山工業高等専門学校の研究室で、男子学生(十九歳)が土木建築工学科五年、中谷歩さん(二十歳)の首をひもで絞めて殺害した。

 ▽28日 北海道稚内市の高校一年の少年(十六歳)が別の高一少年(十五歳)に「現金三十万円を支払うから」と母親の病院臨時職員(四十六歳)の殺害を依頼、刃物で刺して実行させた。「両親の離婚に不満があった」と供述している-。

 ◇心の自己調節能力がなぜ落ちたのか

 以上、十件の殺人に共通するのが何かはすぐおわかりだろう。強盗殺人などの凶悪犯罪、常習者による累犯的なものは一件もない。

 普通の市民、普通の青年、少年が何かの拍子に殺人者にひょう変し、刃物を振るうなどしている。そこがわからない。男女間のトラブル、愛憎が殺人に至るケースは昔からいくらでもあったから、さほど驚きはない。

 だが、あとの殺人動機、親の認知症、孫への不快、娘の家庭内暴力、親への憎悪、騒がしさへの立腹、姑のいじめ、などがどうして殺人に直結していくのか。決して軽いことではない。多くの人が、

「殺してやりたい」

 くらいに思い詰める経験をしてきたが、だからといって、かつては行動に移さなかった。耐えるか、ほかにしのぐ方法を考えたのである。

 ところが、あっさり一線を越えてしまうケースが急速に増えてきたのはなぜなのか。ブレーキが利かない。心の自己調節能力が落ちたからだと私は思う。なぜ落ちたのか。

 それが最大のカギだろう。専門家に徹底分析してもらいたいが、孤独社会に第一の原因があるように思える。一人で悩み、相談相手がなく、孤独に耐える精神力にも乏しい。

 ことに家族のなかの殺人が目立つのは、いっしょに住んでいても気持ちがバラバラで、他人同士以上に始末が悪くなっているからだ。以前は、なにはともあれ、〈わが家〉が憩いと安息の場所だったが、いまは必ずしもそうでない。

 家庭の再生はかねてから叫ばれてきた緊急課題のはずだが、家庭内殺人の増加は、再生どころか逆に悪化していることを物語っている。

 世代ギャップが殺人を誘発するという指摘もあるが、核心の問題ではない。七月には兵庫県姫路市で、八十四歳の老妻が、

「長年、夫から暴力を受けてきた。夫から自由になりたかった」

 と、就寝中の八十歳の夫を金づちと刃物で殺害する事件が起きた。年齢にかかわりなく、入り乱れて殺人は起きているのだ。

 孤独、が殺人につながる恐ろしい社会病になりつつある。即効的な治療薬はないが、放っておけない。






「まるで日本全体がビョーキみたい」
 賞もいろいろである。値打ちのあるなしは、死亡記事に書き込まれるかどうかが一応の基準になるのかもしれない。

 最近話題になったのは、〈ガウス賞〉という初めて聞く賞の初代受賞者に、京大名誉教授で九十歳の伊藤清さんが選ばれた慶事だった。ガウスというのは世界的に著名なドイツの数学者の名前だそうで、実生活に役立つ数学の応用で世界最高の実績を上げた研究者を顕彰する国際賞だ。

 伊藤さんの業績はむずかしくてわからないが、なんでも六十年も前に発表した方程式が、デリバティブ(金融派生商品)の価値決定に威力を発揮しているという。〈ウォール街で最も有名な日本人〉と新聞記事にあった。意外なところで、わが同胞が貢献しているものだ。

 なにしろ、九十歳の高齢で認められたのがうれしい。理論物理学者の湯川秀樹さんが日本人初のノーベル賞を受賞(一九四九年)して、敗戦日本を歓喜させたのは四十二歳のときだった。適齢のような気がする。

 あまり若くしてもらうと〈受賞負け〉なんていうこともありそうだ。賞の重みと一生付き合うのも楽ではない。オリンピックで十代のメダリストが誕生すると、喝采する一方で、

〈これからの人生、大変だろうな〉

 とお節介に思ったりする。

 ところで、今回は同じ賞でも芥川賞のことを書く。二年前の春、第百三十回を受賞したのは二十歳の金原ひとみさんだ。作品の『蛇にピアス』を読んでみて、私はびっくりした。一体、これが文学かと。

 内容の意外性がうけたのか、単行本は百万部近い大ベストセラーになったが、私は当コラム(三〇五回)で、

〈文体は達者でリズムがあり、読まされてしまう。が、読後感は耐えがたい不快、としか言いようがない〉

 と毒づいたのを覚えている。それ以来、芥川賞作品は読んでいない。読む気になれなかった。

 だが、気にはなる。作家志望者がシノギを削る登竜門だから、毎度『蛇に……』レベルではないだろう。

 というわけで、先日、百三十五回の受賞作に決まった伊藤たかみさんの『八月の路上に捨てる』を『文藝春秋』九月号で読んだ。伊藤さん、三十五歳、坪田譲治文学賞などいくつかの受賞歴がある。

 話の流れは、自動販売機に飲料缶を補充して回る主人公のアルバイト青年とベテランの女性社員との会話をタテ軸に進む。並行して主人公の女性関係が織り込まれ、離婚に至る男女の心理のすれ違いのようなものが主題になっている。

『蛇に……』のような不快感もなければ、さほどの違和感もなく、スイスイと読めた。『蛇に……』に出てくる意味のわからないカタカナもない。器用な筆さばきにつられているうちに、あっけなく終わりがきた。

 ◇若い作家の創作意欲がなぜビョーキばかり?

 なーんだ、と溜め息がでる。現代の若者の生活疲れは割合リアルに伝わってくるが、読後の余韻がまったくといっていいほどない。小説を読み終えたあとは、それぞれの読者が自分流にイメージをふくらませて楽しむものだが、それがなかった。

 この点を痛烈に指摘したのは、同時に掲載された選考委員の一人、村上龍さんの選評である。

〈問題は何を伝えようとしているのかわからないということに尽きる。作品のテーマとか、言いたいことは何か、という意味ではない。テーマなんか基本的にどうでもいいことだし、言いたいことがあるのだったら、政治家のように駅前に宣伝車を止めてスピーカーで怒鳴ればいいのだ。

 ただし。小説はメディアなので、「伝えたいこと」がなければ存在価値がない。……伊藤たかみ氏の「虚構」にはそれが希薄だったと個人的にそう思った。

「現代における生きにくさ」を描く小説はもううんざりだ。そんなことは小説が表現しなくても、新聞の社会欄やテレビのドキュメンタリー番組で「自明のこと」として誰もが毎日目にしている〉

 という批評に、胸のすく思いがした。作品より選評のほうが数倍読みごたえがあり、面白かった。

 ほかの選評も総じて辛口である。ではなぜ賞に入ったのか。やはり選考委員の宮本輝さんが、選評で、

〈いい作品がなければ「受賞作なし」でも仕方がないのだが、そうなってしまうと、なんとか若い才能を世に送りたいと願っている賞の主催者たちも選考委員たちも、残念な思いがあとを曳いて、なんともあと味が悪いのだ。……〉

 と正直に記している。選考会の結果は、八人の選考委員のうち二人が○で、あとの六人は△だったらしい。石原慎太郎さんも〈またしても不毛〉と突き放した題の選評を書いているが、全否定の×にはしなかった。

 強く推した二人は、選評を読むと、高樹のぶ子さん、河野多恵子さんの女性作家であることがわかる。

〈職場の年上女性との関係も、さりげないのに艶がある。本気でも浮気心でもなく、よそ心という新表現には舌を巻いた。昨今の男女の実情を、見事に言い当てている〉

 と高樹さんはほめ上げた。男女の作家で評価が割れているように思われたが、偶然かもしれない。

 △組の選評のなかで、いちばんグサリときたのは、池澤夏樹さんの、

〈前回も思ったが、なんでこんなにビョーキの話ばかりなのか? まるで日本全体がビョーキみたい〉

 という言葉だった。

『蛇に……』のときに、それを強く感じた。間の受賞作品は知らないが、『八月の……』にも基調は引き継がれている。

 若い作家の創作意欲がなぜビョーキばかりに向けられるのか。ビョーキ以外に目ぼしい題材はないということなのか。

 ひょっとすると、池澤さんの疑問符は思い違いで、〈まるで……みたい〉なのではなく、日本全体がすでにビョーキと薄いビョーキ状態でおおわれてしまっているのかもしれない。

 めでたい賞の話が、へんな結びになってしまった。すみません。
by sinnriron | 2006-09-08 21:27 | 日記
<< アウトドアスポーツLOVE 寝る時間オーヴァー >>



今の世の中を自分の好きな様に生きてみたい!

by sinnriron
カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧